やっぱりAnkhの発信は続けようと思う

ずっとずっと昔の話。阿佐ヶ谷にあんくというバーがあった。そのバーは独特な路線を歩み、地域の活性化に寄与しているような邪魔をしているような年月を経て、役目が終わり閉店した。当時の名物マスターYは、新天地へ旅だった。(とはいえ、よく阿佐ヶ谷で見かける。w)

Yは沖縄出身のうちなんちゅーで、10代のときから東京暮らしをしていて、沖縄への愛着と憎悪のようなものをあわせもったキャラだ。彼の沖縄との関わりは切っても切れない。沖縄との時間は彼をとても生きにくくしていたようだ。それでも「私、逃げない」と言いはる姿は、かなりめんどうくさい存在感を醸成していた。そこが愛されもしたし、避けられたりもしたのかもしれない。でも、そんな風に歩いた足跡を引き継ぐように街は変わった。何年も経ってから振り返ると、アンク健在のあの頃はYの創造性よりも、破壊力と実行力がキラキラしていた時代だった。

そんなYの理解者のひとりT。東京で生まれて、カオス状態の家業を背負って窒息しそうな20代を過ごしていた。なんの因果か、ひょんなことでYと出会い、直感にしたがってYを家業や、いろいろな仕事に巻き込んだ。「石橋を叩いて渡らず」の家系で育ったTにとっては俊速な決断と行動だった。Yの創造性を信じてのことだった。思ったようなゴールではないが、家業は背負うものではなくなり、家族はそれぞれ自由になり、それぞれの道を歩んだ。Yの破壊力のおかげだ。創造の前に破壊が必要なことも学んだ。

ある日、Tは沖縄にいた。沖縄に暮らそうと考えて、いろいろなことをしていた。沖縄でアンクというバーを始めた。店の名前はアンクだ。沖縄出身のYの阿佐ヶ谷のあんく。東京出身のTの沖縄のアンク。同じ名前のバーは、それぞれの道を勝手に歩み、どちらの店にも行ったことのある客には、東京のYの店は「黒あんく」、沖縄のTの店は「白アンク」と呼ばれた。呼ばれた理由は、単に壁の色が黒と白だっただけだと思う。客たちは、いろいろな思いを込めて笑いながら呼び分けていたらしい。

黒あんくが終わり。それから数年後、白アンクも店を閉じた。店が無くなったのに、店で生まれたコミュニティは無くならないことに気づいた。

かつてのアンクへ足繁く運んでくれた人たちとTは今でも交流があり。県外から飛行機で渡ってくれていた人たちとも、沖縄に来るときに連絡がありTと食事をしたりしている。東京へ行けば、阿佐ヶ谷には黒あんくのコミュニティがベースになった新しいコミュニティがTを迎えてくれる。Tは、あの濃い対話が育んでくれたコミュニティを残したいという思いでこのWEBサイトとAnkhのSNSを残した。

でもどう発信しようか決めきれなかったけれど、まずは店で話したこと、話せなかったこと、とにかく東京から沖縄へ移り住んだから感じることを発信をしていこうと思う。かつて白アンクで話されていたような濃い話になるかならないか。あるいはもっと濃くなるかわからないけれど、思いのそのままを発信できたらなと思う。

きょうから、黒あんくでもなく、白アンクでもなく、ここでAnkhの発信を始める。いや、やっぱりAnkhの発信は続けようと思う。

Ankh

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※あんくとアンクのサイトはこちらです。

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